Vive Hodie.

Non est, crede mihi, sapientis dicere 'Vivam'; sera nimis vita est crastina, vive hodie.

ミシェル・フーコーから法を考える

お久しぶりです。

 

さて、前回の更新から随分と日数が経過してしまいました。ひとまず大学の期末試験が終わり、大学一年の夏休みを非生産的に過ごしています。

今回は重田園江氏の『ミシェル・フーコー-近代を裏から読む-』を読んで(読み進めるうちに)考えたことについて少し書こうと思います。 

最初に断っておきますが僕はこの本を読了したわけではないし、ましてや読了する自信、気力も持ち合わせていません。

 

僕は現在、大学で法律を専攻する法学徒という肩書きを背負っていますし、周りには法曹界へ進むことを望む同級生がたくさんいます。他の大学でどのような位置付けなのかはわかりませんが少なくとも僕の大学では法律学科は真面目と言った印象で見られることが多いと実感しています。

 

その中で、僕はしばしば不真面目、や授業を頻繁に休む生徒として認識されれいると自負しています。

 

以前も書きましたが大学というのは社会人への過渡期、すなわち徐々に責任の所在が自分自身へと移行していくフェイズだと考えています。僕はこれを踏まえてただ大学に提示された科目を盲信的に勉強することに疑問を抱いています。

 

僕の周りの法学徒たちは事件の有責について前々から定められている法律を論理的に当てはめて罪状やその責任について論じることができるでしょう。しかも一般的な法学部生よりも幾分か上の水準で。

 

しかしながら彼らは自らが学んでいる学問自信の成り立ち、もしくはその存在理由について考えたことはあるのでしょうか。極論を唱えてしまえば弁護士なんて六法を暗記することができたらなることはできるでしょう。しかし、それは言ってしまえば工場のライン工が部品を決められた位置にはめ込む作業となんら変わりがない、くだらない作業です。

 

僕が法律学科に在籍しながら法曹を目指さないのはこれが理由です。文中には、法の存在意義、成り立ちについてまざまざと書かれていますが、これの方がよっぽど面白い。

実務的なローを学ぶよりもそれに付随する法哲学の方が、学んでいて発見することが多いように僕は思います。

 

世間には自分の価値観しか存在しないと思っている輩が多すぎる。確かに、自分の価値観が大多数のそれと一致していた方が安心する人間は多いでしょう。しかし、だからと言って他人に強要するというのはおかしい話です。ほっておいて欲しいものですね。真面目くんは勝手に勉強して4大事務所にでも入ってください。

 

私見が入ってしまいましたが、最近ずっと感じていたことです。いつか僕の夢が定まってきたらそれについても書こうと思います。

 

ではまた。